深谷市内にもあった!「鎌倉街道」!
大河ドラマで注目を集めている鎌倉につながる「鎌倉街道」が深谷市にもあった!
深谷市内で行われた鎌倉街道案内板除幕式を取材してきました~。(編集:J子)
- 更新日:2022/07/05
- 公開日:2022/07/05
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鎌倉街道とは
鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり鎌倉時代の関東近郊の主要道といわれています。
深谷市内にもその「鎌倉街道」が実はあったんです!
こちら↓↓↓
現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目が集まる「鎌倉」につながる街道が深谷市に残っているなんて、歴史を感じますね。
上敷免地内鎌倉街道案内板の除幕式が行われました
上敷免鎌倉街道保存会による案内板が新たに設置され、深谷市長をはじめ来賓の方々が集まり、除幕式がおこなわれました。
【上敷免地区内鎌倉街道案内板より】
鎌倉街道とは、鎌倉時代、坂東及び諸国の御家人達が鎌倉へと馳せ参じた道とされ、人や物資が行き交っていたと思われる。具体的な記録にはないが、歴史地理的な研究などにより、概要が明らかになっている。埼玉県内を通る主要道には、県西部を縦断して上州へ至る上道(かみつみち)、県東部を通り常陸へ向かう中道(なかつみち)があった。深谷市内では、平安時代末から鎌倉時代初めに活躍した有力武士の畠山重忠の本拠地である深谷市畠山の西端を上道が通り、付近で荒川北岸に渡り、荒川沿いを寄居町との堺まで向かい、方角を変えて北へ向かうと考えられている。
その支道にあたる伝承路線で、深谷市田中から折之口の東を通過して北上するものがある。上敷免地内にはその伝承路線が通り、ほぼ伝承の道筋を残しているとともに、旧幡羅郡と旧榛沢郡の郡堺とほぼ重なっており、古道としての性格をよく示している。その路線は、瑠璃光寺の東側を通って北上し、福川を渡り、入枝の集落のほぼ中央を通過している。入枝の集落から北は水田の中を走る幅二メートル前後の農道となり、上敷免の泉光寺前に至る。泉光寺は寛平九年(八九七)、良忍上人により開かれた古刹である。
街道はここから穏やかに東にカーブして再び県道由良深谷線にぶつかると思われるが、その先の道筋は判然としない。沼尻方面に向かったとする説、高島方面に向かったとする説、中瀬方面から対岸の世良田方面に向かったとする説などがある。なお、当地の伝承では、新田義貞軍またはその支軍が鎌倉倒幕に向かった際に、僧兵の首魁の泉光寺入道元戒が、利根川渡河点の対岸にある沼尻に布陣し一戦を交えて敗れたことが伝わっている。その後、義貞軍はこの鎌倉街道を通り鎌倉へ向かったと思われる。
上敷免地内の鎌倉街道は、上道本道とともに、上州方面に向かう機能を果たした鎌倉街道の一路線と考えられる。大寄村と明戸村の村境だったため、この道は昭和初期の土地改良においても残された。
このたびNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されており、当地にこの鎌倉街道が現存するので、地元有志相計り、ここに案内板を設置する。
令和四年五月 上敷免鎌倉街道保存会
湯本別当家所蔵の「鐙(あぶみ)」
「鐙(あぶみ)」とは
馬に乗るときにに足を乗せる馬具。
泉光寺入道元戒が使用していたと言われる「鐙(あぶみ)」。
足を入れるところには細かい装飾がありました。持たせていただくとズッシリと重くて驚きでした。
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まとめ
鎌倉時代にこの道を通り、多くの人々や物資が行き交っていたいたと思うと歴史を感じます。今回除幕式が行われた場所(深谷市上敷免)は「鎌倉街道」と「あかね通り」の交差する場所で行われました。
「あかね通り」は渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社から深谷駅までの日本で初めて民間工場のための専用鉄道線が走っていた自転車と歩行者の専用道です。
時代を超えた深谷市の歴史を感じることができました。